Felix | Ross
あなたの名前を呼ぶ。
朝、⽬覚めて、あなたがいないことに気づく。さっきまで、となりで寝息を⽴てていたはずなのに。シー
ツにはまだ温もりが残っている。しわも残っている、あなたのかたちそのままに。
いや、それとも、あなたはもうずっとまえからいなかったのだろうか。あなたは私が創り出したまぼろ
しに過ぎなかったのだろうか。もしかすると、私たちは出会わなかったのだろうか。ぜんぶ、夢だったの
だろうか。
だとしたら、あなたを思い出させる私の⾝の回りの数々、これらはいったいなんなのだろう。
この部屋の窓からビルボードが⾒える。林⽴する⾼層ビルの間に⾒えるそれに、さまざまなイメージが
表れては消える。あるときはビール、あるときはチョコレート、あるときは⾞、あるときは⼥の顔。
もしもあの広告板を買い取ることができたら……とあなたは呟いた……全部のイメージを消し去って、
私はそれをただ真っ⽩にするだろう。
私は⾔った。だったら私は、その⽩い広告板の上に、⼀⽻の⿃を⾶ばそう。
私たちは、ふたり、並んで窓辺の椅⼦に腰掛けて、ビルの⾕間の⽩くて四⾓い空の中を舞い⾶ぶ⿃のイ
メージを追いかけた。あなたの⼼の⽬がみつめていた⿃は、私が放った⿃だった。私たちは、確かに同じ
⼀⽻の⿃をみつめていた。はかない翼のかたちを。
あなたの右腕が、私の左腕に絡まっていた。たしかに、そう感じていた。それともあれは、私の右腕が、
私の左腕を抱いていたに過ぎなかったのだろうか。
もしもこの⾝体がキャンディーの集積でできていたら……とあなたはまた呟いた……ひとつぶ、またひ
とつぶ、誰かが⼿に取り、⼝の中に含んで、いつか私は跡形もなく消えてなくなる。私が⾝につけている
ものはキャンディーの包み紙なのだ、誰かの⼿の中で⼩さく丸められて、路上に捨てられる運命の。
私は⾔った。だったら私は、その包み紙を星々に似た⾦銀で飾り、花畑のように⾊とりどりに染めよう。
私たちは、銀⾊の包み紙をほどき、キャンディーをつまんで⼝に⼊れた。安っぽいチェリーの味が⾆の
上に広がった。きらめく包み紙にマジックペンであなたの名前を書き込んだ。あなたのことを忘れないよ
うに。それともあれは、私が私の名前を記したに過ぎなかったのだろうか。
あなたは何も描かれていない⼀枚のポスターだった。永遠に完成されないジグソーパズルの最後のピー
スだった。消えかけて点滅する電球だった。カーテンの向こうに浮かぶ影だった。
私の世界にあなたはいなかった。私たちは出会わなかった。だから、私たちに別れは訪れなかった。
あなたの名前は〈不在〉。
私の記憶に永遠に遺されたあなたの名前を、私は呼ぶ。
声なき声で、密やかに、しめやかな詩を詠むように。